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故郷中津への3つの恩返し

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故郷中津への3つの恩返し

故郷中津を離れて40年

故郷中津を離れてもうかれこれ
40年なります。
故郷での生活よりも都会暮らしの方が
遥かに長くなってしまいました。

仕事柄日本全国様々な地方に
出向くことがあります。
そこで常々感じる事は、
お年寄りの数の多さと
若者の数の少なさです。


さらに駅前はかつての賑わいは
失われてシャッター通りと
化しています。
都会と地方を往来していると
地方のエネルギーを都会が
吸い取ってしまっているを
実感します。

故郷中津の良さ

中津という街を一言で
表すのはなかなか難しいと
思います。

海・山・川に恵まれている。
城下町としての歴史文化を
備えてる。気候は温暖で住む人
たちはとても人懐っこい。

私は中津城のすぐ近く
南部小学校で幼少期を
過ごしました。
私が小学3年生の時に
開校100周年でしたから
創立150年になる歴史の
ある小学校です。

小学校のシンボルである
楠木はご神木のような
威容です。



そして小学校の周囲を
取り囲むように残るお城の
石垣や正田門、錬心舘に
代表されるような歴史的な
建築物が沢山あります。

また周囲にはお寺などの
神社仏閣も多くかつての
城下街の面影が数多く
見られます。



季節ごとの行事や海山川の
食の豊かさも忘れる事は
できません。
お寺のある街並み、中津祇園、
鱧料理はさながら古都京都を
思わせる文化です。

故郷を離れて日本全国の
数多くの街を訪れましたが中津ほど
自然・歴史・文化を兼ね備えた街は
そう多くはありません。


「剣は心なり」の意味に気付く

私は幼少の頃から地元で剣道を
習っておりました。
当時の中津は非常に剣道の
盛んな街でした。その時の稽古は
随分と厳しいもので朝から晩まで
毎日のように稽古をしていた記憶が
残っています。



中津ゆかりの幕末の剣豪
島田虎之助先生が残した有名は言葉は
中津で剣道を学ぶ子供たちの道場訓と
なっていま尚残っております。


この道場訓の最初のフレーズは
「剣は心なり」です。

この言葉は中津で剣道を
学ぶ者が稽古の終わりの度に
唱和する言葉で私もいまでも
唱和する事が出来ます。

幼少時代はなんとなく
唱和していた言葉ですが
この言葉の意味に気付いたのは
実はかなり大人になってからです。


大人になると様々な苦労や難題に
直面します。物事を何かやろうと
する時は心構えがとても重要です。

大きな目標をやり遂げようと
すればするほど心構え、
つまり人の心のあり様の
部分がとても重要になります。


邪まな気持ちや中途半端な気持ち
では物事は上手く成就しません。
中津で剣道を学ぶことがなかったら
このような事には一生涯気づかなかった
かもしれません。

故郷で育まれたこと(両極端の良いも悪いもごちゃ混ぜ)

人は環境に支配される
動物だと言われます。
環境とは自然や建物等だけ
でなくそこに介在する
人が存在して初めて
成り立つものだと思います。

今振り返ると私が中津で
過ごした高校生まで、
自然・歴史・文化・家族を
はじめとする様々な人たちに
囲まれて育ってきたと
思っております。


酒飲みの父・気丈な母

両親を訪ねて家に飲みに
来るお客さんたち

個性ある姉兄や親類

やんちゃな同級性・真面目な同級生

先輩・後輩

厳しい先生・優しい先生

近所のお店の
おじちゃんやおばちゃん


時には厳しくされ
時には優しくされ
特にはうれしく
時にはむかつく
時には仲良くなる
時には喧嘩する

思い返すに当時の中津は良くも悪くも
白黒はっきりしていて曖昧で中間がない
分かりやすい人が多かった。
そんな印象があります。


中津に住んでいる間は両極端の
良いも悪いもごちゃ混ぜでしたが
今振り返ればトータル良好だったと
言えると思います。

おかげ様で今の自分の土台は故郷での
18年間にあるように感じます。

故郷の若い世代に伝えたい事

中津という街は奥深くとても良い街です。
故郷を離れて数多くの街を見た上での
実感なので故郷贔屓ではありません。

ただ残念なのはその数々の良さの中で
当たり前のように生活しているので
その良さや有難さを住んでいる当事者が
全く気づいていないように感じます。

お恥ずかしながら私自身も
住んでいた時はそんなことに微塵も
気づいていませんでしたので
その反省も踏まえてということで
ご容赦願います。

気候も良くいい街なので
住み心地は良い

住み心地がいいのであまり
ガツガツする必要がない

人懐っこい地域性と相まって
皆さん身内で仲良くのんびりしている


故に中津という街は人懐っこい
地域性でありながら他所から
訪れた人に対してのおもてなしの
気持ちが欠けているという印象が
します。

商売に例えるなら
一見さんに愛想なしという
感じです。

私ができそうな事が今3つある!

私事になりますが今年令和6年6月6日
母が永眠しました。

母が他界したことで我家5人家族で
中津に残っている人はいなくなりました。

残っているのは両親が住んでいた
平屋の自宅だけになってしまいました。

母の他界を境にこのまま故郷との
縁が疎遠になるのは正直寂しい気が
しました。

東京⇔中津の距離はなかなか大変では
ありますが故郷との接点を維持して
行きたいと願っております。

では私が都会に居ながらにして故郷に
恩返しができる事な何か?

今思いつく事は3つあります。

①SNSを活用して故郷の良さを発信する。
 ↓↓
 中津の食・文化・自然をSNSを活用して発信する。

②銀行員としての経験を活かして
 故郷の金融教育や起業活動に貢献する。
 ↓↓
 中津の偉人福沢諭吉は貸借対照表と
 損益計算書を西洋から日本に導入
 した方です。一万円札の肖像は
 渋沢栄一に変わりましたが福沢を
 生んだ中津は金融教育日本一の街を
 標榜してもよいのでは?と真面目に
 思っております。

③私が幼少期に剣道を学んだ場所を
 (錬心舘道場:上記写真参照願います。)
 活用して各地から多くの人が集う
 剣道稽古会を行いたい。
 ↓↓
 東京近郊では所属道場に拘束されず
 SNSを通じて自由に稽古が出来る環境が
 沢山あります。私のように一度剣道を
 やめて大人になって剣道を復活させて
 束縛されず剣道をしたい人は各地に
 沢山います。そんな方の集いの場を
 1年に2回は故郷中津で作りたいと
 思っています。これは②と同じく中津は
 幕末の剣豪島田虎之助の生地でもあり
 錬心舘道場は剣道の専門誌に後世に残したい
 道場として取り上げられた歴史ある道場
 であります。かつて剣道が盛んだった街
 としてまた剣道を通じて街に活気が戻れば
 と思っています。
 

まずは行動を!

前段の私が出来そうな3つ事を
実現するにはまずは自分自身が
動いてやってみる事に尽きます。

私は中津で育ったせいなのか
↓↓
口は良くない
だらしい奴は好かん
言い訳する奴は好かん
大人しく見えて気性強い
負けるのは好かん
現状維持は嫌い
変化革新を好む


こんな感じで良くも悪くも波風を
起こすタイプです。

何か新しい事をやろうと行動すると
必ず紆余曲折は付いて回ります。

ただ思うに真剣にひたすら
取り組んでいたら自然と協力者が
現れる。そう強く信じております!!

まずは行動あるのみこれから動いて
いきたいと思います。


ご参考
★★推し活中津大作戦
https://www.facebook.com/groups/771117568334933

★★私の剣道専用Xアカウント
https://x.com/revaken800

補足
中津と言えば・・・

「中津といえば・・」
の話になると出るネタランキング

1位:なかつ唐揚げ(これダントツ)

2位:福沢諭吉(これもよく出るネタ)

3位:高校女子バレーの東九州龍谷高校
(扇城高校)龍谷の名前が付くようになって
から一気に知名度アップ。古いバレー関係者からは
中津南高校大木先生の名前が稀に出る。

4位:黒田官兵衛。
大河ドラマの影響大です。

5位:プロ野球の大島選手と山口選手。
大島選手はやはり名古屋の方には有名。
山口選手は巨人に移籍してお騒がせ騒動が
あったときに有名になってしまった。

6位:西村英久:全日本剣道選手権2連覇の偉業。
剣道界では有名。

7位:楠木早紀 競技カルタ10年無敗の
永世クイーン。競技カルタ界の神らしい。

8位:本田理沙:
我々世代のアイドルオタクには有名。
タダ悲しいかな中津出身であることは
認知されていない。

圏外:お順さん(福沢諭吉の母)
一万円札が渋沢栄一に替わって
地域おこしの一環だろうか?
中津エリアだけに知名度ある??






 






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